小学校高学年不登校が家に帰ったら
弟が誘拐されていました。
こんにちは、ハルトマンです。
実家に戻ってから少し経った頃のこと、私が駄菓子屋から帰ってくると何やら家が慌ただしかったのです。どうしたのだろうか、と思っていると母親が私に気づき驚いた様子でした。私が何があったのか聞くと何やら話を濁す、それでも何度か聞くとようやく状況の説明を受けられました。
要点をまとめますと弟は保育園で誘拐されたようでした。夕方の迎えの時間、いつもより早く別居していた弟の父親が迎えに来たと偽って誘拐したようでした。
弟はどこにいるのか、警察からの連絡を待っていると弟の父親の母、つまり弟の祖母から電話が入りました。どうやら無理心中を図ったらしいのです。祖母はなんとかこれを止めて落ち着いた時を見計らって連絡をしてくれました。
急いで父親の実家に行くと弟がいました。父親はまたどこかへ消えていました。この時の詳しい状況は覚えておりませんがなんとか弟を連れて帰ることができ今でも弟は生きております。
この後、自分の子供だから弟を返せと弟の父親から何度も電話があったようですが無論返すどころか会わせるわけにも行かずついに電話を無視していると今度は警察署から電話が入りました。どうやら警察署で刃物を振り回し現行犯逮捕されたとの事、動機は母親からの反応を引き出すことだったようです。この他にも自殺を図ったりと色々なことをして母親の気を引こうとしていました。
この事件がこの後数年に渡る離婚争議の始まりとなりました。当時の私の認識はただ何かが起きている、ということだけでこれらの事は後に聞いた話をまとめています。
弟の父親は拘置所から出ると今度は弁護士を立て親権は自分にあると申し立てて来ました。母親は心的疲労が頂点に達して寝込む日々、裁判は祖父が引き受けていました。裁判中も脅迫が止むことはなく、匕首が送られてくる、実家の周囲を徘徊する、自殺を図る、様々なことを行なっていました。弟の父親と契約してしまった弁護士の方のご苦労はとても大きいものだったと思います。
この裁判中、実家の中の空気はいつ弟の父親が踏み込んでくるかという心配と私や弟が攫われるのではないかという心配が混雑して常時緊張した空気が家を満たしていました。私の精神はこの時すでに壊れており遊ぶか暴れるかの日々でした。この裁判がいつ終わるのか、そのような心配はもっと後になってから母親はできるようになったと思います。当時は殺されないかという心配の方が多かったのではないでしょうか。
以後、この離婚争議は私が中学時代になるまで続きました。その間の数年間、緊張関係は止むことがなく私も、母親も、祖父も、皆疲れ切っていきました。
以下追記(書き忘れてました。申し訳有りません)
この頃になると母親の精神状態も極限になり母親も無理心中をしようとパニックを起こすようになりました。その度殴り合いが起き、なんども母親の顔を殴った覚えがあります。何度か殺されかけ殺しかける日常が続き祖母が刃物の管理をちゃんとしていたので殺すまでには至りませんでした。さらに母親が職場から連れ込んだ男が数人いましたが気がついたらいなくなっていました。私か母親のどっちかに殺されるかも知れない状況です。私でも同じ判断をするので彼らの判断は妥当と言えます。この状況は私と母親が入院するまでほぼ毎日続いていました。
学校からは当初の同じクラスからの友達が書いた何かのメッセージカードや保健室や校長室でもいいから来ることができないかと電話が来ていましたがこの頃になると逆に来ないでくれと祖母に連絡があったようです。私とあの小学校との縁はここで途切れました。
こんにちは、ハルトマンです。
実家に戻ってから少し経った頃のこと、私が駄菓子屋から帰ってくると何やら家が慌ただしかったのです。どうしたのだろうか、と思っていると母親が私に気づき驚いた様子でした。私が何があったのか聞くと何やら話を濁す、それでも何度か聞くとようやく状況の説明を受けられました。
要点をまとめますと弟は保育園で誘拐されたようでした。夕方の迎えの時間、いつもより早く別居していた弟の父親が迎えに来たと偽って誘拐したようでした。
弟はどこにいるのか、警察からの連絡を待っていると弟の父親の母、つまり弟の祖母から電話が入りました。どうやら無理心中を図ったらしいのです。祖母はなんとかこれを止めて落ち着いた時を見計らって連絡をしてくれました。
急いで父親の実家に行くと弟がいました。父親はまたどこかへ消えていました。この時の詳しい状況は覚えておりませんがなんとか弟を連れて帰ることができ今でも弟は生きております。
この後、自分の子供だから弟を返せと弟の父親から何度も電話があったようですが無論返すどころか会わせるわけにも行かずついに電話を無視していると今度は警察署から電話が入りました。どうやら警察署で刃物を振り回し現行犯逮捕されたとの事、動機は母親からの反応を引き出すことだったようです。この他にも自殺を図ったりと色々なことをして母親の気を引こうとしていました。
この事件がこの後数年に渡る離婚争議の始まりとなりました。当時の私の認識はただ何かが起きている、ということだけでこれらの事は後に聞いた話をまとめています。
弟の父親は拘置所から出ると今度は弁護士を立て親権は自分にあると申し立てて来ました。母親は心的疲労が頂点に達して寝込む日々、裁判は祖父が引き受けていました。裁判中も脅迫が止むことはなく、匕首が送られてくる、実家の周囲を徘徊する、自殺を図る、様々なことを行なっていました。弟の父親と契約してしまった弁護士の方のご苦労はとても大きいものだったと思います。
この裁判中、実家の中の空気はいつ弟の父親が踏み込んでくるかという心配と私や弟が攫われるのではないかという心配が混雑して常時緊張した空気が家を満たしていました。私の精神はこの時すでに壊れており遊ぶか暴れるかの日々でした。この裁判がいつ終わるのか、そのような心配はもっと後になってから母親はできるようになったと思います。当時は殺されないかという心配の方が多かったのではないでしょうか。
以後、この離婚争議は私が中学時代になるまで続きました。その間の数年間、緊張関係は止むことがなく私も、母親も、祖父も、皆疲れ切っていきました。
以下追記(書き忘れてました。申し訳有りません)
この頃になると母親の精神状態も極限になり母親も無理心中をしようとパニックを起こすようになりました。その度殴り合いが起き、なんども母親の顔を殴った覚えがあります。何度か殺されかけ殺しかける日常が続き祖母が刃物の管理をちゃんとしていたので殺すまでには至りませんでした。さらに母親が職場から連れ込んだ男が数人いましたが気がついたらいなくなっていました。私か母親のどっちかに殺されるかも知れない状況です。私でも同じ判断をするので彼らの判断は妥当と言えます。この状況は私と母親が入院するまでほぼ毎日続いていました。
学校からは当初の同じクラスからの友達が書いた何かのメッセージカードや保健室や校長室でもいいから来ることができないかと電話が来ていましたがこの頃になると逆に来ないでくれと祖母に連絡があったようです。私とあの小学校との縁はここで途切れました。
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