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6月, 2017の投稿を表示しています

ザルに本が置いてあった

 こんにちは、ハルトマンです。  学校とは文化的な装置である以上、本棚は万人に開かれ蔵書は万人が求めるものでなければなりません。だからって管理くらいしろよ。  ある日のこと、授業も終わり缶コーヒー片手に一息ついていると 以前 私をキルト委員会に誘ってきた教員がポツリ、  「図書委員会の人が足りない」  とぼやいて来ました。  この時私の思考はめんどくさい半分、放出書籍転売すれば小遣い稼ぎくらいにはなるか半分でしたか何はともあれ仕事があれば何か稼ぎがあると思い図書委員会にも関わってみることにしました。  委員は私を入れ5名、同期の意識高いの一人、それのお付き一人、よく教育されたオラオラ系ヤンキー2名、私。これ本当に図書委員会かと首を傾げながら委員会活動に出席すると開幕ヤンキー2名は帰宅、意識高いのは典型的な仕事が理解できないタイプでお付きとずっと話している。蔵書リストはあるかと担当教員に確認したところ古いノートパソコンに格納されているとのことでそれを確認しながら本棚と照らし合わせてみると不思議なことが分かりました。蔵書リストにある値段の付く本が片っ端から消えている。  どうやら定期的な蔵書確認をしておらず、貸出実績記録すらないとの事。ズブの素人だった私でもわかる。これはダメだ。とりあえず下手に仕事が増えないよう1ヶ月がかりで問題になりそうな案件を先に見つけて片端からもみ消し書面上は健全な運営体制に作り変え使い物になりそうな2名に現在の蔵書のリストがない(ある)と知らせ急かし新しく蔵書リストの作成から取り掛かることに。この仕事は都合夏まで続きましたがなんとかもみ消しの痕跡は無くなりました。  次に出来上がったリストを教員に見せ今現状の蔵書はこの通り、このような歯抜けではどうしようもないのでせめて購入リクエストを募ってみては如何でしょうかと上申して拡充の決定を頂きました。歯抜けの原因は分からないと寄贈本だからではを繰り返しなんとか追求を逃れることに成功しました。もし真相が露見したら図書室そのものが解体される事になったでしょう。  こうして私はキルト委員会と図書委員の二つを掛け持ちする事になりました。当時、両方で相当な汚れ役やったから学校卒業できたのだろうと思っています。でなければあの名前を書いただけの答案で点数が付くはずがありませんか

切った縫ったの毎日

 こんにちは、ハルトマンです。  前回、私は放課後に 針と糸 を持つようになりました。  キルト委員会とはそもそも何をしていたのか、まずはその整理から始めたいと思います。端的に申しまして授業の準備と直しが主な仕事になっていました。  新学期が始まると総合の授業で各学生たちがキルトを縫い始めます。一人9枚の正方形ピースを縫い合わせ一枚の3×3のパッチを組み上げていくのですがこのキルトのゴール地点は2つあり1つは9×9パッチを2枚使って作るクッションなのですが最後に棉を詰めた時各ピースがふっくらとなる必要がありそれに合致した縫い方が決まっていました。  放課後、授業で作られた3×3のピースがキルト委員会に運ばれて来るのですがこの時そのまま使えるものは全体の5割にも満たなかったかも知れません。縫い方が間違っている程度なら糸を解いて直すだけですが余程力を込めて縫ったのか生地の糸目が崩れていたり縫い方が特殊で糸を解くだけでも時間を要したりと直しの仕事が大半を占めていました。  当然これでは放課後の時間では足りず総合の時間中にもう一つのゴール、タペストリー制作に使うパッチを組み上げていました。こちらの方は適当に組み合わせれば良い、というものではなく大きな模様を組み立てなければならないので難易度が上がります。  さて、ここからが最大の問題です。ある目的を達成するには常に最適が求められます。古代ローマが誇ったレギオンなどはこの好例かと思います。ともかく人員が必要なわけです。しかも仕事ができる人員です。私が在籍していた高校はそもそもできない子が集まる高校でした。その中から辛うじて仕事ができる人間を抽出して委員会へ組織していくわけですから人員は非常に限られたものとなり結果として稼働できるのは5名に満たない目的に対して少数すぎる構成員で仕事をしておりました。  予定より多い仕事、足りない人員、そして季節によって灼熱と極寒が入れ替わる寒暖の差が激しい労働環境が我々を苦しめていました。私がいた高校は山の斜面に校舎が建っており日当たりは非常に良好でした。夏は日当たり良好過ぎて換気機能がない委員会室は灼熱地獄と化していました。さらに委員会室の前はグラウンドになっておりラグビー部が熱い青春と滾る肉体を発露させており全てが熱い環境での針仕事。冬場は山に日が隠れてしまい自然

エデン戦線異常無し

 こんにちは、ハルトマンです。  散々ラム肉を焼き続け昔話をする余力がないので本日の更新はイベントバーエデンにて行われたラム肉配布企画の内側を書き残そうと思います。あと例の件についての所感も書きます。  ある日のこと、てんちょうは言いました。  「イードやるぞイード、羊の肉配るんだ」  「え?」  正直何を言っているのかわかりませんでした。詳しい段取りも何もなしでトントン拍子で進む企画進行、とりあえずとはいえスープ係になるもこの時点では私も何も考えていませんでした。  6月28日、水曜日。その日はいつもの初見歓迎バーでした。その日は てんちょうブログ の読者の方々で賑わっておりました。  見誤った、まさかこれほどとは。スープ作りと飲食提供の同時進行は中々どうしてできることはできるが難しい。しかしおまるさんが材料調達を手伝ってくれたお陰でなんとか当日のスープを用意するまでに至る。  閉店後に食品管理衛生責任者、すごい人、私でラム肉の提供方法を検討するも私はポンコツ無能で使い物にならず撤退、必死に電車内で考え込むもやはり何も思いつかず部屋に戻りこの日を終えました。  6月29日、当日。関係者全員朝に弱いエデン本営も気合を入れて朝から活動を開始。すごいひとは睡眠時間を削り朝からラム肉を焼きだしていた。そしてこれが後に功を奏する事となった。  13時、開幕から8名来店。来るのは早くても夕方だろうと考えたいた出鼻を挫かれ大急ぎでラムステーキをパックに詰めて提供を開始した。  この後、続々と来店して頂き私とすごいひととでローテンションで肉を焼き続け無事ラム肉は完売致しました。  しかしこの日はこれだけでは無かったのです。  イベントバーエデンは 立ち退き してくれと言われてしまったのです。  てんちょうすごい楽しそうだった。  私が個人としてこの件について思うことは、ありがとうございます。この一言に尽きるものです。確かにイベントバーエデンは開店以来様々な粗相を重ねて参りました。潰れる潰れるガサ入れされる検挙されると思って早1年、全くその兆しも無くただ曖昧にその日を営業をして一部の方々からは最近のエデンはたるんでいると厳しいご指摘を頂戴しておりましたところに飛んで火に、いえ、たるんだエデンに喝を頂戴いたしました

通信高校1年生と針と糸

 こんにちは、ハルトマンです。  晴れてカタギの道に戻ったと思ったらジャングルだった。人生がよくわかりません。 高校とは、学校とはああいうものだったのでしょうか。少なくとも自分がまともの部類に入る高校があっていいものなのでしょうか。怪しいところです。  その日、私は週二回の登校日のうちの一つに出ていて唯一まともに進行できる体育の移動中でした。私が行っていた高校は全日制の校舎と通信制の校舎があり私たちは通信制の校舎から教員総出の護送でグラウンドへ向かっていました。護送はテンション上がって全日制の校舎にカチコミかましたり私のように飽きて消える者が出てくる為です。  この護送中に国語の教員からある相談を受けました。キルト委員会を手伝ってくれないか、私の高校では授業の一環でキルト作りがありキルト委員会とはその授業の準備をするところでした。曲がりなりにも高校に入れてもらった恩義がある以上、手伝いが必要と言われたら断ることもできません。その日から私は針と糸を持つようになりました。  キルトの授業は総合必修で全ての学生が受けていました。まず針と糸の使い方から縫い方など細かい作業の概要を教えそれから実技ということになりますが私のクラスからして このザマ だったので技術精度や出来栄えは一切求められていませんでした。できる子はできるし、できない子は最後まで頑張れば良い、そんなゆるい授業でした、  で、尻拭いをしていたのがキルト委員会の面々でした。分かりやすい授業と解説用紙があってもできるできないはあります。まず最初にやる仕事はちゃんと形になっているキルトと使えないキルトを分別することからでした。次に形になっているものはそのままつなぎ合わせて完成品に近づけ、全体の9割を占める使えないキルトの糸を解き再度正しい形に縫い直す。これを放課後の1時間程度を使ってやっておりました。  キルト委員会にいたのは比較的大人しいメンバーでした。同期が一人と先輩が数人、私以外全員女性だった為私は浮いた存在だったかと思います。男子の大半が蛮族に近かった為、非常に警戒されていたようです。  人生初の、学生生活が始まりました。 前の記事 / 次の記事

前略、オフクロ様

 「前略、オフクロ様。晴れて私は高校へ入学できました。  一日も早く学校というものに慣れて健やかな学園生活を送りたいと思います。」  魁‼︎クロマティ高校第1巻より一部抜粋。  こんにちは、ハルトマンです。  皆様はクロマティ高校を読んだことがありますでしょうか。私は実写版が好きでした。ゲーム版は辛かったです。さて、本題に入りますと私が入学した高校は週の登校日が二日と自由登校日が一日、メカ沢とフレディとゴリラがいないだけの高校でした。馬はいました。  入学式の日まではまともだったと思います。カトリック系の通信制高校でとても厳かに入学式が執り行われ、司祭様がいらしていたりしました。  何かこう気に食わない。自分自身の信仰にないことで祝福されたところでストレスでしかない。ということで入学式から消えました。使ったのはいつもの手です。皆が起立して式に集中している時に堂々と出て行きました。どうやら誰一人気づかなかったらしく式が終わって名簿確認中に私がいないことに気づいて私を探し回ったようです。多分その時私は高校の自販機でコーヒーを買って一服していたと思います。  さて、授業初日。開幕から私がご厄介をかけ、まさか私以上の阿呆はいないだろうと思っていたのでしたがこれは完全に私の失点でした。いました。私以上のアホが、それもクラスの8割。  最初の授業から生徒から教師に対して煽りが入る、何かあるたびに入る。国語の先生は若干涙目になり、化学の教師はいじめられた子供みたいな目をして出て行きました。次の日、副校長先生からシメが入りその後1時間だけ平静が保たれたようですがすぐ元どおりになったそうです。私は眠かったので行きませんでした。  その後2ヶ月でクラスからごそっと人がいなくなりました。男子は喧嘩、喫煙、無免、その他で停学または退学になり、女子は登校拒否、妊娠、その他でいなくなり、残ったのは20名にも満たない精鋭集団。しかし授業の崩壊は食い止めることができずついには授業のノリが変わりました。  喋るならば、いっそ喋らせる授業にしてしまえ。多分当時の教員の方はこう考えたのかも知れません。片っ端から質問を求め、それに片っ端から答え、話を振り、話を振られのマイケル・サンデル方式の授業に変わったのです。大人しく板書を写すなんてそんなぬるい世界ではありま

まさか高校へ行くなんて

 こんにちは、ハルトマンです。  私はよくうっかりをします。お店で注文を忘れたり、自分で考えていた予定を忘れてしまったり、とにかくうっかりをしてしまいます。  あの高校入ったのは私にとって完全にうっかりでした。いくつかの恩義がありますが私にとってうっかりでした。本来行こうとしていた高校は別にありまして、そこは都内のやたら自由な高校でして定期券があれば商売の幅が広がるとその一点にのみ気合を込めて高校受験に腹をくくったはずでした。  受験日前日の寝起きに麻雀誘われちゃった。寝ぼけたまま打ちに行き、気がついたら朝が来て、太陽を拝みながら人生について考えていると朝の清とした空気に私の携帯が鳴り響きました。忘れてた。今日受験じゃん。  でも、めっちゃ眠い。家に着いた時には既に疲労困憊、ぼーっとする頭でとりあえずシャワーに入り目を覚まそうとするも眠気が勝る。シャワーから出ることには疲労と眠気、そして朝日と程よい体の温かみ。ベッドへダイブしようとする私を家族総出で止めにかかりなんとか私はスーツを着込んで面接に向かった。  結果から申し上げますと落ちました。受験中の記憶がありません。多分朦朧としていたはずです。この後、地元の高校がまだ受けられるということでもうどうにでもなれというノリで受けに行きました。  何か受験が終わり部屋で一息ついていると親が高校から呼び出され帰ってくると何やら私に説明し始めました。結果としては落ちていたらしいです。  ですが当時の教頭先生が  「この子をうちで拾わなかったらどこが拾うんですか」  と仰り、晴れて私は高校生となりました。通信ですが。 前の記事 / 次の記事

中学生不登校にとっての中学校

 こんにちは、ハルトマンです。  当時の私にとって中学校とはなんだったのか。正直申しましてとても希薄な存在でした。部活もテストも私には関わりのないことでしかなく、小学校時代のように保健室も課外学習も関わりませんでした。どこまでいっても定型世界でしかなく、ただ退屈が降り積もる場所でした。  私にとって中学校とは外でした。日銭を求めて一日中歩き回り、強い相手面白い相手を求めてカードゲームを振り回し、朝も夜も関係なくどこかで誰かと喋っていました。体系的なことはなくただ商いの腕、カードゲームの腕、個人の能力が最大限発揮される自由な場が私の中学校でした。  麻雀で大負けしても相場読みを失敗して向こう数日分の食費が無くなった時も楽しかった。電車代が無くなって夜道を歩き続けたことも、自転車移動で膝を悪くしたのもこの頃でしたがとても楽しかったです。  様々な行政の支援を受けましたが私が学校へ行こうという気持ちにはなりませんでした。私は中学校という世界を知りませんでしたが外の世界を知ることができました。比較することはできませんが一度既に枠から外れてしまった身に合うのは枠のない世界でした。当然枠のない世界は枠に守られることはありません。危ないことも沢山ありましたが友達と幸運に助けられました。  この時代で最大の失敗は自分の障害や病気を詳しく知ろうとせずただその日を燃料のように燃やしていたことでしょうか。あの時に問い詰め障害や病気の詳細を知りこの使い勝手の悪い頭や体の使い方を勉強しておけば良かったと後悔しております。  小学生時代より短い中学生時代、私にとって多くの時間を外で過ごした時間でした。卒業式も出ずただその日も外で何かをしていたはずです。 前の記事 / 次の記事  

中学生不登校、条件付きで実家に戻る

 こんにちは、ハルトマンです。  地元やその周辺方々で小銭稼ぎをして日銭を稼ぐ日々、そんな日々にも変化が生じました。高校受験という不条理が迫って来たのです。私は実家から行方を眩ませて商いで身を立てて行く気しかありませんでした。しかし事情を整理するとどうも実家から完全に離れる方が不利だということがわかったのです。  この頃、私よりカードトレードが上手い友達が増えており私の稼ぎは目減りしていました。さらに目減りした分を穴埋めしようと2、3行儀の悪い商いもやっており正直申しまして長続きする気配が無かったのです。お天道様の下で働けることをあれほど羨ましいと思ったのはあの時が初めてでした。  商売にも陰りが増え始めて来た頃、実家から高校受験のためにせめて障害支援の家庭教師の下で勉強してみないか、という誘いが来ました。小遣い付きで。この頃は養育費の支払いや慰謝料の支払いがあったようで多分そのお金が使われたものだろうと思います。  私の家庭教師になったのはPでした。プロデューサーさんです。わかる方にはわかる話です。私が電子辞書でMediaの綴りを調べてギリシア神話の方のメディアが出てくるとキャスターと口を滑らせていたりする方でした。この後にもその時々で家庭教師の方が来ましたが後にも先にも私のめんどくささに付き合って頂けたのはこの方でした。  勉強というものに触れて思ったのは数学というものは構造物であるということでした。基礎がない、掛け算割り算すらやっていない人間に中学校数学はなかなか無理がありました。さらに短期記憶に障害があったため解き方を悉く忘れる始末、きちんとできた自主課題は全て文脈から類推できるものだけでした。  中学校からは進学云々の話や学校説明会などの話が来ていましたがそもそも私は興味がなくほぼ無視していました。その結果、とんでもない高校へ進学してしまうことになるのですがそれはいずれ書きたいと思います。 前の記事 / 次の記事

雑記:小学生不登校、保健室とか遠足へ行く

 こんにちは、ハルトマンです。  今回は低学年の頃だったか高学年の頃だったか思い出せなかったことを書こうかと思います。  私が精神崩れるかどうかの頃だったかと思います。学校側からなんでもいいから学校に来てくれという電話が何度かあり仕方がないのでたまに保健室や遠足に顔を出していたような覚えがあります。  保健室は本当にやることがなく暇な場所でした。ちょうど弟の父親対策で携帯電話を持たされた頃、私が保健室で携帯アプリのグラディウスや超兄貴で遊んでいるとそんなに暇ならとパソコンでの事務仕事をやってみないかと誘われ今でいうところのキラキラネームに悩まされながら一時期の名簿は私が作っていました。担任の先生はたまに学校はゲームをする場所ではないと言ってきたりしましたが私はそれならばとそのまま帰っていたため段々と放置気味になっていたので私にとってはいい暇つぶしとなりました。  遠足は心底つまらなかったように思います。何をするにも興味が違う人間と集団行動しなければならない苦痛、行きたくない場所に行く苦痛、常に先生の監視の目から逃れられない苦痛、これらの苦痛が渦巻いていました。多分私と同じ班にされた側も苦しかったと思います。私と組まされることは基本的には貧乏くじに等しいものだったと思います。なので消えました。周りがショーとかに集中している隙に堂々とその場から消えました。不思議なもので人間の認識とは常に物事を連続体として捉えているようで認識している連続体に違和感が無ければ何も気づかないのです。映画フィルムのコマが一つ抜けていても誰が気づくでしょうか、きっと映画を止めてフィルムを見なければ気づくことはありません。これと同じで集合時間になり認識が一度落ち着くとやっと私がいないことに気づくのです。普通は集団行動から抜けて好き勝手に自分の興味のまま楽しんでいたら怒られるところですがこの頃の私はそういった倫理観は全く理解できていないので堂々と集合時間から少し過ぎた頃に集合場所に行きました。担当教員は大体何を言っても時間がかかるだけなので何も言って来ませんでした。  遠足で思い出しましたが不登校を学校に戻す仕事や遠足での監視役を生徒に任せるのはよろしくないと思います。責任感が強いお子さんとかは先生の期待を裏切らないようにと必死に頑張って前提の違いに気づかず失敗して泣いてしまい心

中学生不登校、飢える

 こんにちは、ハルトマンです。  家に帰らず四六時中カードゲームに没頭する毎日、勝った負けたに溺れる毎日、そんな日々の中でもっとも大変だったのが食事事情でした。中学生の懐事情など高が知れているというもの、ラーメン一杯でも悩む有様でした。ある時期には財布の中身は1円だけになっていた時もありました。今回はその時のことを思い出してみようと思います。  アルバイトもできない中学生不登校がどうやって日銭を稼ぐのでしょうか。人が集まっている場所には自然と需要と供給が成り立ってきます。それはカードでも食事でも生活でもそうです。発生している需要に注目するとある層が際立っているのがわかりました。  大学生たちです。彼らは常に暇と小銭を持て余していました。そこで私は彼らに向けてカードを売り出しました。トレードは市場を知って、相場を覚えて、専門用語を覚えて、誰が市場で支配的か被支配的立場かを知らなければなりません。しかし別の土地から大学進学で引っ越してきた彼らはその情報を持っていません。そこで私は彼らと市場の間に入って中間業者を始めました。幸い私も自由な時間だけはいくらでもあったので最盛期は誰がどのカードを持っていて普段どのような相場を注目しているかを全て把握するまでになっていました。そうなるとカードショップで販売されている価格より安くカードが欲しいという大学生たちが私にメールを送ってくるようになりました。  この頃はまだスマートフォンが普及する前でネットオークションに参加するだけでも一定の障壁があった時代です。メール一本で安くカードが買えるなら良い、例えその価格が中間マージン込みの価格であったとしても店舗価格より安ければ良い。それが彼らの思考でした。私は友達とこの商売を重点的に広げていきました。結果としては私よりその友達の方が商いに向いており私は二番手三番手の立場でしたがとりあえず空腹からは脱出することができました。  私はこの商売では得た現金より連絡先と信用の方が重要だったと考えております。カードゲームをやっているプレイヤーのコミュニュティーは常に雑多な環境が続いておりました。治安も決して良いとは言えず時たま盗みの話が聞こえてくるくらいでした。その中で得た信用は現金より価値あるもので引っ越しの手伝いや店のカード仕分け作業など小さい仕事を貰えるようになりマクドナル

中学生不登校、帰ってこなくなる

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 こんにちは、ハルトマンです。   以前の記事 で私はカードゲームショップに行くようになった話を書きました。そこで今回は時間を持て余した中学生不登校が変な遊びを覚えるとどうなるかの一例を書きたいと思います。  最初、私が行っていたお店は警察署のすぐ前にあるリサイクルショップでした。中古品のCDやゲームソフトを扱う傍でカードゲームの取り扱いもやっていました。店内には机と椅子が置いてあり平日は夕方から、土日は開店からカードゲームプレイヤーが集まるようになっていました。客層は幅広く、小学生から大学生、社会人や無職などが集まっており縦にも横にも広い空間を形成していました。  中では常時対戦やトレードの市場が立っており活気に溢れていました。この頃の私は常に対戦を好んでおり無い頭で考えたデッキを振り回し一喜一憂しておりました。トレード市場では常にトレンドに沿ったカードやマイナーながらも一定の評価があるカードが取引されており近隣の大型カードショップに立っている取引相場や買取販売価格などを元にレートが形成されていました。  リサイクルショップではカードの販売とくじが扱われておりトレード市場に足りないカードを供給したりくじに高額カードを入れ私をはじめとする博打好きを遊ばせてくれました。ですが今でも思います。幾ら何でも総量50個いかない100円のくじに取引相場5000円以上のカードを入れるのは正気の沙汰ではありませんでした。  さらにこの頃に障害溢れる私に社会性を叩き込んでくれた師匠(本人曰く、自分のテーマソングはEarth,Wind&FireのSeptember)に出会いました。  師匠は所謂トレンドに対してメタ的な視点が強い方で流行している形式のデッキをゴミ箱に捨てられているカードでデッキを即席で組み立てたり、見向きされないアーキタイプを使い相手の対策を迂回する奇策を使うことが趣味のプレイヤーでした。  ゲームセンターでも同じように性能より腕で勝つことを美徳としており味方にすれば心強いが敵にすると楽ではないと評価されていました。私は師匠の下でカードゲームの戦い方からカードゲームショップに置いてあったカイジのスロットマシンで7の入れ方を教わるなど多くのことを学びました。  さらにカードショップで多くの友人を得ました。自分より年下でも多くの

中学生不登校、行政のご厄介になる

 こんにちは、ハルトマンです。  中学校へ進学して少しの頃、私は市の色々な学習支援組織のご厄介となっておりました。今回はそういった行政支援を少しまとめていこうと思います。  私が住んでいた街には生涯学習や育児支援、会場貸出などを行なっている市営センターがありました。その中で私は育児支援で行なっていたカウンセリングを受けていました。小学生の頃は別の学習支援専門の市営団体でカウンセリングを受けておりましたが別の支援センターにご厄介になることとなりました。  以前受けていたカウンセリングは主に今現在を対象としていた感がありましたが新しいカウンセリングでは今現在に加えて将来どうしたいかなど対象が広がっていたように思います。しかし当時の私にとってそもそも将来という考えは一切ありませんでした。  落ち着くことの無かった小学校時代が終わり、ようやく静かになろうかという頃に将来と聞かれても私には何一つ具体的なことは思いつきませんでした。曖昧な表現となってしまいますが夢というものを養う期間が無かったのかも知れません。夢を持て、という言葉が世の中飛び交っておりますが持つだけでは夢は体や心に対して小さいままになってしまいます。体や心と同じように夢も育てて3つの調和がとれてこそ将来を考えることができると思います。夢を育てるには夢を見るしかありませんが私には夢より現実に構わねばならない時期が多く、ついには夢を見る心や体を壊してしまいました。その時の私は将来を聞かれてこう答えたと思います。  早く実家から離れたいです。  一人になるしかない、それが私の答えでした。  このカウンセリングと並行して別の中学校にある不登校支援学級にもお世話になることがありました。そこでは二人の先生が私を含め数人の生徒の面倒を見ておりとても自由な環境だったように記憶しています。教室は一つだけですが中には木材や段ボールなどの材料と糸鋸などの工具類も揃っており勉強というよりか好きなものを作って時間を潰すという感じでした。昔から一人で遊ぶことが多く段ボールを使って色々なものを作っていた身としては勝手知ったるというもの、思いつく限りのものを作り遊んでおりました。  しかし完全に自由とはいかず、木製の軸にしならせた竹と少しの機構をつけた大型ボウガンや段ボールで作った大剣は即座に規制されました

中学生不登校と弟の元父親

 こんにちは、ハルトマンです。  小学生時代から長々と続いていた離婚争議もこの頃になると状況に進展がありました。弟の父親もようやく脅迫すると裁判で不利になる、ということが理解できたようで懐柔戦術へと変化しました。  最後に弟の父親に会っていた時期では私にPS3、弟にWiiを渡して来たり現金を渡して来たりとこちらの気を引こうとしていましたがこちらとしてはもう一緒に生活したいという気持ちはありませんでしたので頂くものだけ頂いて帰るような状態になっていました。  そもそも離婚争議がここまで長引いた原因は二つありました。まず弟の父親が事あるごとにストーカー行為や脅迫行為を繰り返しその度に警察のご厄介になっていたこと、次に当事者の多くが無能力者状態になっていたことがあげられます。  裁判での弟の父親の目的は当初親権に重点が置かれておりどうしても弟の親権が欲しかったようです。ここまでは自分の子供を育てたいという人情として理解できます。しかし直近で誘拐事件、ストーカー行為、接近禁止命令違反、脅迫行為など問題行動を繰り返しており弟の身の安全の問題があった為、この親権問題では不利という他ない状況でした。  そこで弟の父親側はあくまで定期的に会いたいという主張に戦術を変えて来たのです。この主張は妥協点として通りやすかったようで養育費の定期的支払いを条件として一定の合意に至ったようです。しかしこの後、弟の父親側は養育費の支払いを拒否しながら私や弟に合わせろと脅迫するようになりこの合意は瓦解しました。最後は自分の担当弁護士に対して暴言を吐き捨て帰って行き、何を思ったか定期会合の合意を復活させたいと同じ弁護士の先生に頭を下げ、なんと一瞬だけ復活を果たすもまた養育費の支払いを拒否してそれ以来会うことはありませんでした。  次に当事者の問題ですがまず無能力者状態について少し書きますと精神状態や病気などが理由で正しい意思表示ができない状態にある人間のことを法律業界ではこういうようです。今回の離婚争議では当事者であるところの母親と弟の父親双方に精神的問題がありそもそも泥沼状態からがスタートでした。この離婚争議に関わった法曹関係者や双方の弁護士の方、警察関係者の気苦労は計り知れず今でも頭の下がる思いです。  弟の元父親は今でもたまに沖縄土産を実家に送って来たりして来ます

中学生不登校、不登校を作る

 こんにちは、ハルトマンです。  起きている時間は常に液晶画面を見ている生活を続けていた中学生不登校生活。人間には飽きというものがくるのものでたまに遊びの約束を取り付けに休み時間の学校に顔を出すようになりました。話を取り付けるとすぐ帰宅、帰りのコンビニで缶コーヒーを買い友達が早く学校終わる日だったりすると近くの公園で待っていたりもしました。  そんなある日です。  当時の友達たちが私に  普段は何をしているのか?  何故学校に来れないのか?  と聞いてきました。私はこの問いに「適当に遊んでいる」や「病気で行けない日が多い」などと答える中で不登校生活を少し話してしまいました。多分これが彼らの中で何か反応したのでしょう、一週間後、不登校が二人増えました。  私が一体どうしたんだと聞いたら彼らは揃ってこう答えました。  「お前この前行きたくなければ行かなきゃいいんじゃないって言ってたよな」  なんと申しましょうか。いや申し訳ございません。私が悪いです。まさかこうなるとは思ってもみませんでした。しかもこれが短期で終わることはなく長期化。片方は私と同じく障害を発露させ、もう片方は保護者が学校行ったら小遣いを与えるようになったため別方面に悪化、収拾がつかない事態となってしまいました。  当時の私には今ほどの認識はなく、ただ遊び仲間が増えたと遊戯王をやっておりました。  この頃から私はいわゆるカードを専門に取り扱う店に出入りするようになりました。教えてくれたのは登校初日に友達になった彼。その店はリサイクルショップの傍でカードを扱っているような店で雑多な店の中に机と椅子があるスペースが作られていて私はそこでよく遊んでいました。店に来る客層は小中高大の生徒学生に加えて社会人、ダメ人間、障害、と幅広い人間が楽しんでおりました。今思えばあの店が私のカードゲームキャリアの始まりでした。いつ行っても誰かいる、いつ行っても話の合う誰かがいる。そんな場所でした。  カードゲームへ移っていくにつれてネットの世界からは離れていきました。この頃のチャットサイトはメンバーが煮詰まって複雑な人間関係が形成されておりとても居心地の悪いものとなっていました。風通しが悪くなった空間は腐る、私が最後にチャットサイトで学んだことです。 前の記事 / 次の記事

中学生不登校の登校初日

 こんにちは、ハルトマンです。  長々と続いた小学生不登校生活も終わり今日からは中学生不登校になります。小学生不登校時代より幾分か行動範囲が広がり暇を持て余した不登校の生態をご覧ください。  入学式を寝過ごした私の登校初日は最初の授業日でした。その日は教科書配布、自己紹介、委員決め、仮部活決めと色々ありました。まず自己紹介から思い出すと特にやる気もなく氏名だけを述べてそのまま座り周囲の空気をずらした感がありました。次に委員決めと部活決め、周囲は小学校時代に何委員だったか、どの部活だったかと少し騒がしくなっていましたが私は担任の先生に「どうせ来ないのでいいです」とだけ伝えて帰りました。  この頃になると自分のできることとできないことがうっすらですが見えてきていました。できないことはしない、しなければならないことは増やさないなど消極的になっていった時期でもありました。登校初日も学校に入るまでは自分が通えるかも知れないという淡い希望を持っていましたが校舎に入ってすぐに体がアレルギー反応のようなものを起こしている感覚を感じて即座に自分はここが嫌だなと理解しました。  しかし何も悪いことだけではありません。この初日で現在でも付き合いのある友達ができました。この友達がのちに私を遊戯王の世界に誘ってくれましてただでさえ捻れた人生がより立体的に捻れた人生となってしまいました。  当時の私は行動範囲が広がりつつありました。教育テレビも6年見たら飽きます。自転車で周囲を走り回り暇を潰したりパソコンで当時隆盛の兆しを見せていたチャットサイトやオンラインゲームにはまっていきました。  当時、チャットサイトは大手のチャットサイトと個人サイトのチャットページに分かれていました。私がいたのは大手のサイトで時には10時間程度張り付いていました。人間の会話が文字になるというのは面白いもので会話ログを見ながら会話できるので脳内での情報処理がとても楽でした。さらに男女が集まれば色恋沙汰もあり修羅場もありで大変なことになっていた記憶があります。私もその中にいましたが当時の私にとって付き合うとはなんかよく話し相手だな程度の認識しかなく大分ぼーっとしている存在でした。オフ会などもありましたが中学一年生には電車代の捻出も厳しくみやげ話を聞くのが楽しみになっていました。  オンライ

小学校不登校の為のプラン

 こんにちは、ハルトマンです。  ここからはまとめの一環として小学校不登校にならない為のプラン、小学校不登校になってしまった場合のプラン、自分が不登校になった時のプランの3つを考えていきます。 ①小学校不登校にならない為には(保護者向け)  私はこうした都合もあり病院や支援施設で様々な不登校を見てまいりました。その中でやはりというべきか多くの家庭が壊れていました。壊れ方は様々ありますが割合で見て一番多かったのは親が精神を病むケースが多いように思えます。病む原因は人間関係の食い違いが多く、孤独を深めて精神的な負荷が増し最終的に何かしらの病気になってしまいます。小学校時代の子供にとって親の精神的問題は致命傷になりかねません。  子供が不登校にならないようにするにはどうすれば良いか、私はこの問いにただ親が健康であれば良いと答えます。付け加えるのならば小学校を卒業するまでに思い出を沢山作っておくと良いでしょう。  これは抽象的な意味では無く、この時代に積み上げた思い出が後々の人格形成に大きく影響するのです。ここでは簡単に説明するため、味覚の継承を例にします。親の味の好みは子供に継承されます。人間は子供の頃から家で食べている食事が薄味なら薄味に慣れ、濃い味なら濃い味に慣れます。別の例で見ると親の趣味が読書なら本に慣れ、スポーツならスポーツに慣れます。重要なことは”慣れ”です。幼少期からの慣れが後の人格形成に大きく影響いたします。これを不登校防止に応用しますと家族の中でコミュニュケーション能力の醸成、とりわけ一対一のコミュニュケーションではなく一対多でのコミュニュケーションに慣れさせる必要があると考えられます。  なぜ一対多か、それは組織や団体、集団の中での人間関係形成は往往にして一対多が基本となるからです。学校などの枠組みから外れないためにはこの一対多でのコミュニュケーション能力が欠かせません。対人の基本が会話である以上、会話能力の醸成は必要不可欠であり安心してこの醸成ができる場こそが家庭であります。  もし自分の子供を不登校にしたくなければまず自分が子供との思い出を作れるくらい健康であれば良いでしょう。 ②小学校不登校になったしまった場合(保護者向け)  原因は人それぞれあります。私のように家庭環境が崩壊したことに起因したり、発達障害

小学校不登校のまとめ

 こんにちは、ハルトマンです。  徒然と小学校時代を思い出し綴って来ましたがこの記事を以って小学校時代の区切りにしたいと思います。この後の中学、高校、現在の大学と繋がっていきますのでどうぞお付き合い頂ければ幸いです。  自分の小学校不登校時代をまとめますと”崩壊”の一言に尽きます。家族、友達関係、自分、これら全てがこの時に崩壊を起こしました。何が原因だったのかと考えれば原因が多すぎて困るほどです。ですが楽しかったことも僅かにあります。壊れる前、ほんの一瞬の小学校生活や壊れつつある中で祖母が私を公園や動物園に連れて行ってくれたこと、ただ曖昧な意識の中で感じた猫の温もり、私にとって小学校時代とはこれに尽きてしまうのでしょう。 前の記事 / 次の記事

小学校高学年不登校の入院生活と卒業

 こんにちは、ハルトマンです。  今回の記事は 前回 の続きなので未読の方は前回の記事をご覧いただけると幸いです。  最初にいた病棟での事件の後、私は別の病棟へ移りました。理由は2つです。一つは年齢的理由で小学校高学年になっていた私は中学生以上の病棟へ移らなければならなかったこと、もう一つは環境の問題です。この頃私は非常に音が気になってしまい神経も敏感な状態が続いていました。小学生が多い最初の病棟では声など音が多く私の回復の妨げになっていました。  新しい病棟に移ると環境が大きく変わりました。一番の変化は周囲の年齢層の幅が広がったことです。高校生以上もいる病棟だったので以前なら年長に近かった私は最年少となりました。さらに自由の面でも変化がありました。単独外出が可能だったのです。私は調子が良い日に一人で散歩に出かけるようになりました。糖分が少ない病院内での生活では外で食べるポン・デ・リングが一番のご馳走になっていました。  娯楽面では病棟内に卓球台があり各入院患者が自分の病気や特性を生かし異様なやり込みを見せていました。他にもテレビの自由があり一部では自宅外泊した時にゲームのプレオ動画をVHSに録画してプレイを競ったり様々な娯楽が形成されていました。  自由に弊害は付き物です。この病棟ではいじめが横行していました。職員に隠れて殴る蹴るなどの暴行、暴言もありさらに上下関係もできていました。いじめる側にならなければいじめられる、どこも同じこのロジックが当てはまりました。私は最初こそいじめる側のグループについて行こうとしたのですが一部が職員に発覚、私に嫌疑がかかり職員から取り調べを受けると今度は私がいじめられる側になりました。  最終的に私は自分が知っているいじめを全て祖母経由で病院側に伝え退院しました。あの時、長期入院の患者が多かった理由は多分いじめの放置が原因だったのではないでしょうか。最初の死亡事故の時点で管理体制の問題に気付けていれば良かったのですが当時の私にはその力はなく未熟を恥じるばかりです。  私が家に戻ると母親が年下の大学生男子に捨てられメンヘラを悪化させていました。この時を最後に母親が家に誰かを連れ込むことはなくなりました。  以上が私の入院生活です。環境は最悪でしたが投薬が効いたのか症状が変わり暴れるなどは無くなりまし

小学校高学年不登校、入院する

 こんにちは、ハルトマンです。  この頃だったと思います。家で飼っていた猫が寿命のせいか次々に亡くなっていきました。皆10歳以上の長生きでした。私にとって最後に暖かかった存在がいなくなりました。  暴れる頻度も多くなり、家だけではなく学校や支援施設でも暴れてしまうことがありました。こうしたこともあり私と母親、親子揃って別々の精神病院に入院する運びとなりました。  入院当初も環境変化から暴れていたような覚えがあります。しかし投薬により徐々に環境に慣れてくるとまた昔のように友達もでき会話することも多くなりました。病院内の学校にも通い始め自由時間にプラモデルも組んでいました。外出時にはゲームショップで中古ゲームソフトを買ったり外食を楽しんでいました。そんな時です、私がいる病棟で死亡事故が起きました。入浴時に担当者が目を離した時にひきつけを起こしそのまま溺れ亡くたったと聞いています。もうすぐで退院だった。  その日の夕方には多くの警察が病棟に立ち入り捜査を始めました。  私は亡くなった子の一番の友達だった子と現場へ行こうとする他の子供たちを他の職員と止めていました。今でも覚えています。大人ですら混乱しているこの状況、その時の私はすでに知っている空気でした。これは自分や他の友達が関わって良いことは何一つない、そう思い他の友達を止めていました。数日後、外泊から帰ってきた友達から外の世界ではこれが事件としてニュースになっていること、亡くなったこと、様々な情報が入ってきました。  この後、私は別の病棟に移りました。あの事件はあの場にいた人全員の記憶にまだあると思います。記憶に障害のある私にとっても強くその日は残っているくらいですから。 前の記事 / 次の記事

小学校高学年不登校が家に帰ったら

 弟が誘拐されていました。  こんにちは、ハルトマンです。  実家に戻ってから少し経った頃のこと、私が駄菓子屋から帰ってくると何やら家が慌ただしかったのです。どうしたのだろうか、と思っていると母親が私に気づき驚いた様子でした。私が何があったのか聞くと何やら話を濁す、それでも何度か聞くとようやく状況の説明を受けられました。  要点をまとめますと弟は保育園で誘拐されたようでした。夕方の迎えの時間、いつもより早く別居していた弟の父親が迎えに来たと偽って誘拐したようでした。  弟はどこにいるのか、警察からの連絡を待っていると弟の父親の母、つまり弟の祖母から電話が入りました。どうやら無理心中を図ったらしいのです。祖母はなんとかこれを止めて落ち着いた時を見計らって連絡をしてくれました。  急いで父親の実家に行くと弟がいました。父親はまたどこかへ消えていました。この時の詳しい状況は覚えておりませんがなんとか弟を連れて帰ることができ今でも弟は生きております。  この後、自分の子供だから弟を返せと弟の父親から何度も電話があったようですが無論返すどころか会わせるわけにも行かずついに電話を無視していると今度は警察署から電話が入りました。どうやら警察署で刃物を振り回し現行犯逮捕されたとの事、動機は母親からの反応を引き出すことだったようです。この他にも自殺を図ったりと色々なことをして母親の気を引こうとしていました。  この事件がこの後数年に渡る離婚争議の始まりとなりました。当時の私の認識はただ何かが起きている、ということだけでこれらの事は後に聞いた話をまとめています。  弟の父親は拘置所から出ると今度は弁護士を立て親権は自分にあると申し立てて来ました。母親は心的疲労が頂点に達して寝込む日々、裁判は祖父が引き受けていました。裁判中も脅迫が止むことはなく、匕首が送られてくる、実家の周囲を徘徊する、自殺を図る、様々なことを行なっていました。弟の父親と契約してしまった弁護士の方のご苦労はとても大きいものだったと思います。  この裁判中、実家の中の空気はいつ弟の父親が踏み込んでくるかという心配と私や弟が攫われるのではないかという心配が混雑して常時緊張した空気が家を満たしていました。私の精神はこの時すでに壊れており遊ぶか暴れるかの日々でした。この裁判がいつ終わるのか、

帰ってきた小学校高学年不登校

 どうも、ハルトマンです。   前回 、夜逃げならぬ昼逃げでなんとか殺される前に実家へ帰って来たわけですが手遅れなことには変わりありませんでした。私も母親も精神的に無傷とはとても言える状況ではありませんでした。母親はこの頃から起きている時間より寝ている時間が多くなり、私はかろうじて残っていた学校に行く気力がほとんど潰れてしまいました。  これで終わりではありません。  まだ小学校高学年編の始まりの部分です。  実家には母親には兄、つまり叔父がいました。彼は既に精神を病みパチスロと株で生活費を稼いでいました。その叔父は精神的に不安定になると神経質になりやすく様々なことで祖母や私にあたることがありました。  その日もそうでした。私が遊んでいる合間にトイレに行って戻ってくると叔父が散らかっているから片付けろと言い出しました。しかし私の気持ちは未だ遊んでいる最中、適当に答えて遊び始めると叔父は激昂し怒鳴り始めました。多分この日が私が正気だったと言える最後の日になるかと思います。私は限界に来ていました。どこに行っても落ち着く場所はなく、家ではただ辛くあたられる日々、私は叔父を殴りました。殴り、殴り返され、その場は修羅場と化しました。他の家族はこれまでなかった状況に混乱しなんとか私と叔父を引き離してその日は終わりました。  この日から先、私は自分の正気は無くなったと考えています。  母親は弟の父親から送られてくる脅迫に怯え精神を潰され、叔父や祖父は元からの精神病が悪化し、祖母は唯一正気で各個人を離すなどして不要なトラブルが起きないように配慮し、私はここにあげた全員を殴り続けました。私にとってこの時最大の失敗は弟の父親から脅迫目的で送られて来た匕首で弟の父親と叔父を殺しておかなかったことかと今でも反省しております。この時に仕留めていればこの後に起きた問題のいくつかは無かった。  弟の父親は様々な脅迫を行なったのち、ストーカーになって私の実家周囲を徘徊。それでもこちらから反応がなかったため弟を保育園から誘拐して無理心中を図りましたが弟の祖母に止められ今でも弟は生きております。この事件の後、弟の父親は警察署で暴れまわり即時逮捕されました。しかし出所後もこちらに対するストーカー行為は止むことがなく離婚争議中も様々な形で接触をしてくるなど問題がありました。

小学校高学年不登校の引っ越し

 こんにちは、ハルトマンです。  人間、不登校生活にも慣れてくるもので私はこの時期色々なことに気づき始めました。教育テレビは結構同じ話を放送する。時代劇では初めて出て来たかっこいいキャラクターは必ず死ぬ、ココアの粉は食べると太る。色々なことを学びました。  小学校低学年最後の頃、実家では仕事の都合でもないのに何故か私、弟、母親、弟の父親で別の家に引っ越すことが決まっておりました。私からすればただの負担でしかありませんでした。何故ならこの引っ越しはメンタルが壊れつつある両親と生活を共にして家族で唯一メンタルが普通な祖母から離れることを意味していたからです。さらに隣の市に引っ越しはするが学校はそのままというアンバランスさにより友達と遊ぼうにも遊べない複雑な状況も出来上がってしまいました。  弟の父親、と書いておりますが私と弟では父親が違います。 私の父親は熱心な某学会の家の人だったらしく貧しい家に巨大な仏壇があったと聞きました。さらに伝え聞くに実質ヒモだったということもあり私が生まれてすぐ離婚したとのことです。そうして母は弟の父親と再婚して四年後に弟が生まれました。  話を戻しまして引っ越し後の話を思い出しますと引っ越していいことは何一つありませんでした。弟の父親の車趣味により借金が増加、それによって米を炊くにもガスコンロを使わなければならず、ガスコンロを使うから光熱費も上がり、と経済的困窮の連鎖が始まってしまったのです。  そしてこの頃から弟の父親のDVが始まりました。便座の蓋を閉めなければ罵声と暴力、食事中に手から箸を話せば罵声と暴力、常に目を見なければ罵声と暴力、常に目を見ていると罵声と暴力、このように軽い DVから始まり徐々に悪化していきました。うる覚えではありますがこの頃に一度インフルエンザを悪化させて危なかったようなこともございましたが今思えばこれもDVだったのかどうか怪しいところです。  私へのDVが悪化すると共に母親への DVも悪化していたようでついに弟の父親が仕事に出ている間に借りていたアパートから逃げることになりました。何も分からずただ荷物をまとめて元いた家に戻る。ここからが長期に渡る離婚戦争を幕開けとなったのです。 前の記事 / 次の記事

小学校高学年不登校

 こんにちは、不登校のハルトマンです。  昨日の不登校バーに来てくださった皆様ありがとうございました。このブログをおっかなびっくり進めていく上で貴重なご意見を賜りただただ感謝するばかりです。  さて、小学校低学年編の一応のまとめを終え次は高学年時のことを思い出したいと思います。この頃の状況を整理しますと多くの変化がありました。住む家が変わり、家族が変わり、何一つ見ても安定することのない時でした。その中で既に不登校となっていた自分がどうなっていったのか、それを今後いくつかの投稿に分けて記事にしたいと思います。  話は脱線しますが私はたまに「もし時間を遡って戻れるならいつがいいか?」と聞かれることがあります。他愛のないただの世間話ですが私にとってこの質問は考えることの多い問いかけです。私はこう答えました。  「もし戻れるなら小二の夏かな」  家族が家族であって友達が友達であって、私が正気であった最後の時期だと思います。夏休みは連日友達と遊び、強く記憶に残っているのは部屋の中でヨッシーアイランドの100点埋めやスーパードンキーコング2のクリアに心血を注ぎ、部屋の外では田舎へ帰って親戚の人にどこかへ連れて行ってもらったりカブトムシを探したりと楽しいばかりの夏でした。私にとっての楽しいのハードルはこの程度でした。その場その時が限りなく楽しい、それだけで良かったのです。 前の記事 / 次の記事

部屋を掃除していたらWAIS-3が出てきた

 どうも、ハルトマンです。  今日は少々夕飯を食べ過ぎてしまい部屋の片付けがてら腹ごなししようとごそごそやっておりましたところ20歳の頃に受けた懐かしの心理検査報告書が出てまいりました。 このまま埋もれさせるのも勿体無いので記事にさせて頂きたいと思います。  この心理検査報告書はPARSという検査とWEIS-3という検査の二つで構成されております。たまに障害関係当事者がこれを酒の肴にしてキャッキャウフフしていたりするわけですが健常な方にはとんとご縁のないものかと存じます。  まずPARSとは広範性発達障害の可能性の有無をみる検査を指します。いくつかの項目に答え幼児期ピーク得点と思春期・成人期ピーク得点の二つの数値を出し判定するものとなっております。中学生以上の時にこれを受けた場合、幼児期ピークの得点が9点以上、思春期・青年期のピーク得点が20点以上で広範性発達障害の疑いが強くなります。  では私のスコアは一体何点を記録していたのでしょうか。  幼児期ピーク得点=14点  思春期・青年期得点=18点  なんとも中途半端な数字で日頃の精進の足りなさが滲み出ている数値が記録されておりました。広範性発達障害の診断を受けた者としてこの結果は恥じるばかりです。  次にWEIS-3の結果を見てみましょう。こちらは少々込み入っておりますが個々に数値が出ておりさながらテレビゲームのパラメーターのようになっております。こちらの検査は項目が些か多く、まず全検査IQという項目があります。ご存知の通りのIQ検査でして平均値を100としてこれより高いか低いかを見ます。次に言語性IQと動作性IQ、文字通り言語と動作の使用能力を対象としております。この数値の差が15以上離れておりますと何らかの疑いが強くなってまいります。  では私の全検査IQ、言語性IQ、動作性IQのスコアはどのようになっていたでしょうか。  全検査IQ=94  言語性IQ=93  動作性IQ=97  実に普通、平均通りの数値です。  しかし問題はここから。  群指数、これがパラメーターのようになっております数値の一つでして平均値を100として各項目を見るわけでございます。これが私の場合は以下の数値となっておりました。  言語理解=95  知覚統合=103  作動記

小学校低学年不登校まとめ

 どうも、ハルトマンです。  つらつらと昔のことを思い出していますとやたら喉が渇いてくるものでございまして缶コーヒーがすっかり空となってしまいました。  奇妙なものでこうしてぼんやり考えたり思い出しておりますと頭の中が整理されていき  ”あ、あれ今じゃ虐待案件じゃん” とか思うことも多々ありますが頭の後ろから今更感によって次々と追い出されていってしまいます。  さて、ここまで大体の小学校低学年時代の生活を綴ってまいりました。小学校低学年、つまり小学校3年生までの人生は言ってしまえば諸々の導火線に火がついた頃だった時代でした。このあと小学校高学年になると一つ、また一つと爆弾が爆発してまいります。  書く場所が無かった為ここでまとめて書かせていただきますが生まれてから小学三年生時点までで何度が死にかかってます。具体的な年齢までは覚えておりませんが保育園から小学校低学年までのことでした。  名前を覚えているのだけあげますと無菌性髄膜炎、日本脳炎、マイコプラズマ肺炎、どれもあとでこれはうっかり死ねる病気だったんだなと気づきましたが当時の私にはそんなことは何もわかりませんでした。  その他にも細かいのを除けば弟の父親が運転する自転車の荷台に乗せられ足首をひねり私を病院に連れて行くか否かで両親が口論したり、インフルエンザを意識が飛ぶまでただの風邪ということにされ肺炎寸前になったりと生き死にの際が身近な毎日でした。  現在では命に関わる大病が人生おかしくなる障害と病になり首から下はそこそこ健康に なりました。生きているって妙なものですね。 欲しいものリスト 前の記事 / 次の記事

小学校低学年不登校にとっての学校世界

 こんちには、不登校のハルトマンです。  初投稿から1日経ち思わぬ反響にただただ驚くばかりです。  さて、今回は小学校低学年時代の自分にとって学校世界はどのように見えていたのかを思い出してみようかと思います。  小学校1年生の後半か2年生の前半に不登校になりはじめました。不登校とはある日突然なるものではありません。徐々に徐々に学校世界から遠ざかって行くものなのです。  最初の頃はただ行きづらいだけでした。頻度で言えば週に1、2回休む程度。しかしこれが徐々に進行して行くと休む日が増えて行きます。  理由は様々あります。まずこの頃家庭内の問題が強く現れはじめました。  多分ですがこれが引き金となって不安が強くなっていったのでしょう。次に学校に行かなくなる日が増加すると学校世界で通用する話題や勉強の進捗、つまり前提となっているものについて行けなくなり付き合いのあった友達と疎遠になって行きました。  学校世界の前提についてもう少し詳しく書きますとここで述べている前提とは大体3つの要素で構成されていたように思えます。  一つは勉強、一つは娯楽、一つは家でのこと。この3つが学校世界で話題を形成してコミュニュケーションを形成していたように思えます。  まず勉強から考えてみましょう。週に1日や2日程度の休みではそこまで勉強に遅れは生じません。多少あってもクラスの勉強できない子と同等程度になるだけです。しかしこれが4日以上になるとそうは言えません。完全に何を言っているのか分からなくなりす。 こうなってしまうと復帰まで時間を要する状況になります。  次に娯楽はどうでしょうか。一口に娯楽といってもその時々の流行りや実質的に娯楽と化している体育授業での成績など多岐に渡って存在しています。ゲームやアニメなどの流行りはまだ学校外での娯楽で十分ついて行きようがある娯楽ですが体育や同じ授業の音楽での役割や成績などとなりますとどうしようもありません。  最後に家でのこと。これは家族に限定せず習い事がどうの、買い物がどうのといったいわゆる世間話の類です。実はこれが一番の鬼門でして最も共感を得やすい話題だけに求められる話の質もある程度要求される上、この話題を話せなければ学校での人権はまずありません。  ではどうすればこの話題を安定して話せるか、それはどこ

小学校低学年不登校の出歩く先

 どうも、不登校のハルトマンです。 小学校低学年の不登校生活は中々暇なものでありまして部屋の中ではテレビ画面ばかり観ておりました。では部屋の外、屋外では何をしていたのでしょうか。今回の記事ではそれを思い出してみようかと思います。  まず第一に思いつくのは駄菓子屋です。学校に行く道中にある二軒の駄菓子屋でよく小さなくじを引いたり50円で贅沢を楽しんでいました。普通、駄菓子屋というものは友達と行って楽しんだりするものかと思いますが私の場合は駄菓子屋でお菓子やジュースを買い友達が学校終わるのを近くの公園で待っていたような記憶があります。  次に公園です。ブランコ、滑り台は当たり前として今やご禁制となった遊具の宝庫。しかしそういった遊びは一切せずゲームボーイを起動させポケモンに勤しんでおりました。ポケモンの他にもドラゴンクエストモンスターズ2やコロコロカービーなど公園はその時々の流行りの中心地だったのでしょう。  他にもベイブレードや遊戯王をやっていました。特に遊戯王は後の私の人生を食いつぶすくらいにはやっていました。  最後に友達の家。これは健常者各位と同様にスマブラやマリパでした。しかしスマブラ下手くその身に与えられる階位は下座、お菓子からは遠い身分でありました。  ざっくりではありますがこんなものでしょうか。当時からの友達がいればもう少し詳細を書けるのですがこの後の病状の悪化により友人関係は小学校高学年までには壊滅、以後友達というものは中学に顔を出すようになるまで存在しませんでした。  今思うとゲームがあって本当に良かったと思います。  遊びの中で社会性が形成されるのは誰しも同じですがあの頃はスポーツかゲームの二択だったように思えます。スポーツがダメな私がギリギリの社会性を獲得できたのは任天堂様のお陰と言えましょうか。しかしこれはその時々の旬なゲームを持っていればの話であって中古の古いゲームや家で遊ぶ卓上ゲーム機では中々こうは行きません。この後離婚戦争が本格化すると親も資金難になったのでしょう、旬なゲームからは遠ざかりそれと同じくしてゲーム仲間とは疎遠になったような気がします。同時期に病状の悪化もありましたのでそれもあると思いますがやはり人間関係の基軸だったゲームを断たれたのが要因として考えられます。  どんな年齢になろうとも人間関係

みんながドッジボールをやっている時の小学校低学年不登校

 どうも、不登校のハルトマンです。  暗い話ばかりでは喉が乾くばかりなので軽めの話を少々。  皆さんの小学校低学年の頃には何が流行っていたでしょうか?  私が小学校低学年の頃にはよく友達にドッジボールに誘われたものです。しかし産まれた頃より発達障害と診断された身としては球技は鬼門であります。そこで全く違う流行り、テレビ画面の世界へとのめり込んでいきました。  朝8時過ぎごろに起きるとまずテレビをつけ教育テレビを観ながらの朝食です。ガンコちゃん、ストレッチマン、メカラッパ、作ってあそぼ、皆様が学校で観せられていた番組を私も観ておりました。無論、再放送分が多い番組なので同じ番組を何度もでしたが発達障害のせいか少々退屈なだけで苦は感じませんでした。  11時ごろ、教育番組が終わるとチャンネルを切り替え今度は時代劇の世界へ。暴れん坊将軍、八丁堀の七人、三匹が斬る、銭形平次、この頃のテレビはまだ多くの時代劇を放送しており食後の楽しみでした。  時代劇が終わると分岐点です。洋画を観るかゲームをするか、3時間目終わりの友達と遊ぶかです。最初の頃はこのサイクルを続けておりましたが次第に状況が変化してまいります。祖母が私を市の教育支援施設へ定期的に連れて行くようになったのです。  今思えばあれはカウンセリングだったのでしょう。  新聞紙や段ボールで何かを作るか、備品のゲーム機で持っていないゲームを遊ぶか。そんな感じのことをしながら何か質問に答えていたような気がします。他にも箱庭にゾイドを投入したり新聞紙とビニール袋で作ったサンドバックに割り箸で作った弓矢を撃ち込んだりとあるものを使って遊んだり無い物から作って遊んでいました。楽しみは帰りの自販機で買うリアルゴールドかコンビニのお菓子でした。  以上が小学校低学年時代の私の有様です。  基本的には遊ぶくらいしかできませんでした。大人しく座ることは既にできなくなっていたはずです。  あの頃の私にとってブラウン管の世界に集中している時がすべてでした。その時だけは見たくないものも考えたくないものもこの世には存在せず、ただ静かだったような気がしたのを今でも覚えています。  あとは飼っていた猫の温もりでしょうか、まぁそのくらいです。 前の記事 / 次の記事

不登校の引き金

 こんにちは、不登校のハルトマンです。  記憶は曖昧ながらも時系列を追って書いて行こうかと思い先ずは小学校低学年の頃を思い出してみようかと思います。  この頃、家には家族というものがありました。(弟の)父親がいて、母親がいて、弟一人、祖父母、曽祖父、叔父と行った具合のよくある家庭の形でした。  小学校に入った初期、まだ学校に行く気力があったように思います。しかし行きたくて行く、というよりも行かなければならないらしいから仕方なく行くと行った気分が強かった記憶があります。  初めて学校でできた友達はポケモンの金銀繋がりだったでしょうか、互いにアカネ討伐や四天王クリアに向け色々話をしていたような気がします。当時は他にもゲームが多くスマブラ、どうぶつの森、マリオ、遊ぶだけなら家の外も内もなく楽しい時代でありました。  元来、私は自由を好む性格のようで何処かへ行くのは好きですが行かされるのは大の苦手でした。伝え聞くに保育園の頃からその気風が強く相当面倒をかけていたようです。多分この頃から既に障害みを発露させていたのでしょう。  私が学校に行かなくなり始めたのは小学校1年後半か2年の最初の頃でした。  最初は徐々に行かなくなり、あるタイミングで行くことは無くなりました。そのタイミングとは弟の父親のDVと母親のメンヘラ悪化による家庭環境の崩壊でした。  何の切欠で両者が崩壊を起こしたかは分かりませんがこれが致命傷となりその後私はたまに学校に顔を出しては消える時期と完全に行かない時期のどちらかしか無くなりました。  強いストレスのせいかこの頃から離婚戦争終結までの記憶がとても曖昧になっており詳細は書けませんが思い出せる範囲で書かせていだだきます。 前の記事 / 次の記事

不登校ブログ始めました

 初めまして、池袋の場末で店番をしておりますハルトマンと申します。  この度は 生活保護芸人 にして 宗教家 にして ロクでもない店 の擁護者の えらいてんちょう に「不登校ブログやってみれば」とのいつも通りふわっとしたお話を頂きうる覚えではありますが皆様が学校で真っ当な人生を送っている間、学校の外で何をやっていたかを綴らせていただきます。  概要だけまとめますと私は義務教育というものを受けた記憶がございません。  小学校低学年の初期段階で既に義務教育を離れ、中学生の年頃にはカードゲームと麻雀、ネトゲにチャットサイトと人間のクズをやっておりました。  義務教育期間を過ぎますと高校へ進学、ということになりますが所謂”勉強の仕方”というものを一切知らない身にとって受験という無理難題が降って来ます。しかしこれをなんとか越えて週に2度だけ顔を出す通信制の高校に入学することが叶いました。  そして今現在、東京のとある大学のご厄介となり場末の店番で遊んでおります。  小学校時代から高校までをこう書きますと2段落6行になりますが本ブログではこの短い文章の中身を可能な限り事細かに書き綴り公益に資せればと愚考する次第です。  願わくば今現在不登校各位の話のネタになりますように、願わくば不登校の子どもを抱え頭を抱えている保護者各位の気晴らしとなりますように。 【告知】  2017年6月19日に イベントバーエデン で 不登校バー をやります。 学校経験が人生の前提でない飲み屋をやりますのでどうぞよろしくお願いいたします。 次の記事