小学校高学年不登校の入院生活と卒業

 こんにちは、ハルトマンです。

 今回の記事は前回の続きなので未読の方は前回の記事をご覧いただけると幸いです。


 最初にいた病棟での事件の後、私は別の病棟へ移りました。理由は2つです。一つは年齢的理由で小学校高学年になっていた私は中学生以上の病棟へ移らなければならなかったこと、もう一つは環境の問題です。この頃私は非常に音が気になってしまい神経も敏感な状態が続いていました。小学生が多い最初の病棟では声など音が多く私の回復の妨げになっていました。

 新しい病棟に移ると環境が大きく変わりました。一番の変化は周囲の年齢層の幅が広がったことです。高校生以上もいる病棟だったので以前なら年長に近かった私は最年少となりました。さらに自由の面でも変化がありました。単独外出が可能だったのです。私は調子が良い日に一人で散歩に出かけるようになりました。糖分が少ない病院内での生活では外で食べるポン・デ・リングが一番のご馳走になっていました。

 娯楽面では病棟内に卓球台があり各入院患者が自分の病気や特性を生かし異様なやり込みを見せていました。他にもテレビの自由があり一部では自宅外泊した時にゲームのプレオ動画をVHSに録画してプレイを競ったり様々な娯楽が形成されていました。

 自由に弊害は付き物です。この病棟ではいじめが横行していました。職員に隠れて殴る蹴るなどの暴行、暴言もありさらに上下関係もできていました。いじめる側にならなければいじめられる、どこも同じこのロジックが当てはまりました。私は最初こそいじめる側のグループについて行こうとしたのですが一部が職員に発覚、私に嫌疑がかかり職員から取り調べを受けると今度は私がいじめられる側になりました。

 最終的に私は自分が知っているいじめを全て祖母経由で病院側に伝え退院しました。あの時、長期入院の患者が多かった理由は多分いじめの放置が原因だったのではないでしょうか。最初の死亡事故の時点で管理体制の問題に気付けていれば良かったのですが当時の私にはその力はなく未熟を恥じるばかりです。

 私が家に戻ると母親が年下の大学生男子に捨てられメンヘラを悪化させていました。この時を最後に母親が家に誰かを連れ込むことはなくなりました。


 以上が私の入院生活です。環境は最悪でしたが投薬が効いたのか症状が変わり暴れるなどは無くなりましたが薄く鬱があったり不安が制御できない、あまり字が書けない、記憶が安定しないなど多くの障害が残りました。

 病院から出ると私はすぐ小学校卒業を迎えました。何か微妙な空気の中執り行われる卒業式、ただ出てただ小学校生活が終わりました。思い出はありません。

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