どこからあおいうに個展は始まっていたのか

 2017年8月10日、私はあおいうにと付き合いことを決め彼女の部屋に住むことにした。

 部屋はふたつあり片方はゴミとダンボールが積み上がり辛うじて寝床がある部屋、もう片方も一見するとゴミまみれの部屋に見えたがその実は違った。床に敷かれた絨毯が周囲とその空間を隔絶しているように存在し、イーゼルには描きかけの100号キャンバス作品『寝そべる人』があった。私は彼女に聞いた。

 「どうやって生活しているの?」

 彼女は答えた。

 「描く時だけ帰ってきて普段は他の場所にいる」

 なるほど。電気もガスも止まり、部屋はゴミとダンボールで埋め尽くされてもなお絨毯の上にはイーゼル、キャンバス、筆、画材、すべてがすぐにでも仕事を始められるよう配置されており一切散らかっていない。この絨毯の上が彼女、あおいうにの世界であり聖域だと私は感じた。

 この時、私はいくつか思案した。生活はどうするか、体調はどうするか、しかしその中でも私の脳内はある一点で思考が引っかかっていた。それは彼女、あおいうにが部屋までの道中で私に言ったこの言葉が原因だった。

 「自分は歴史に遺りたい」

 私は世界史が好きだ。世界史で名前が遺っている人物は何故遺っているのだろうか。それはその時代において全力を出したか、その時代と噛み合ったか、その時代で最大の幸か不幸かを掴んだかだと考えられる。

 では”あおいうに”を歴史に遺すにはどうしたら良い。全力は本人が勝手に出すだろう、時代との噛み合わせはプロが手伝ってくれるだろう、幸か不幸は……

 正直私は臆病者である。自分が誰かと出会ったことが相手にとって幸運だったと言い張れるほど太い肝は持っていない。よってやることは一つ、彼女が全力を出せる”場”を構築することだ。この散らかりを通り越して生活できない部屋で出せる全力とこれをすべて片付けて暖かい部屋、温かい食事、温かい風呂を得た状況で出せる全力は決定的に違うはずだ。私は、彼女の全力を見たかった。

 この後、私は気を病んだり体を病んだりして散々彼女の足を引っ張り迷惑をかけながら部屋を片付けライフラインを復旧し風呂を沸かして鍋料理を作った。今思い出しても自分が害悪だったことは多いと思う。

 そして彼女の入院、引っ越し、そして個展準備。

 引っ越し先の家でまず最初に作った空間は彼女の作業場だった。絵を描く空間があって初めてあおいうにの家になる。台所もトイレも風呂もすべて絵を描く空間のための支柱でしかない。そして引っ越し作業で疲れているにも関わらず彼女は新作を描き始めた。

 紙パレットにアクリル絵の具を出してはキャンバスを見、出してはキャンバスを見を繰り返している。そして水に筆を浸し、筆先で絵の具を拾ってキャンバスに一つ、また一つと色を入れていく。濃く、薄く、大きく、細く、素人目には何を描くではなく描くから何かになっているように見えていた。筆で描けない箇所は指で描き、また筆、時には刷毛を使って画面が構築されていく。一枚にかかる時間はほんの数十分、絵の完成は彼女が決めることだ。

 こうして数十点の新作が出来上がった。出来上がった絵はどれ一つ見ても荒い箇所は無く一枚一枚に彼女が生きていた。ゴミ一つない空間から紡ぎ出された絵画は以前の作品を上回るかのような作品だった。これが見れただけでも自分の人生が満たされたと思えるほどに心が満足を感じていた。

 あおいうにの個展準備は彼女が絵を描き始めた時から始まっていたのか、それとも公募に出展した時から始まっていたのか定かではないが公募落選展は彼女の過去を展示し、向こう側へ渡ったらは彼女の現在と未来を展示していた。向こう側へ渡ったらの中で写真を展示していた私はたまたま2017年8月10日から彼女を手伝っていたに過ぎない存在だった。しかし今日まで彼女と共に過ごせたことに後悔はない。そして次の個展に向けても私は彼女を支え続ける。彼女が描いてくれた私の肖像画が朽ち果てるその日まで私はあおいうにと共にいる。

 ああ、それにしても楽しい個展だったな。

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